
上杉謙信の死に関係するサイレントキラー、高血圧
5月17日は世界高血圧デーです。この日は血圧管理をすることの大切さ、高血圧が及ぼす健康被害について多くの人に知ってもらおうとさまざまな活動が行われています。そんな高血圧に熱い5月に、高血圧と目される歴史上の人物の生活から高血圧を考えてみましょう。
現代では「敵に塩を送る」って、どう理解される?
戦国時代に「越後の虎」と称された戦上手の武将である上杉謙信は高血圧だったといわれています。
戦国時代を舞台にした時代劇などにたびたび登場する「川中島の戦い」ですが、これは越後を治めていた謙信と甲斐の武田信玄による合戦で、川中島は現在の長野県・千曲川周辺です。この川中島の戦いは計5回、12年ほどにも及ぶ長い戦いでした。謙信23歳から34歳までのアドレナリン爆上がりの一大イベントだったのです。
謙信の好敵手であった武田信玄の領土は現在の山梨県、いわゆる海なし県です。したがって、生命を維持するために欠かせない「塩」は他国の大名から購入しなくてはならず、駿河の今川と共に三国同盟を結んでいた相模の北条が頼りでした。それなのに、武田信玄が同盟を覆したことで北条からの塩の供給がストップします。併せて周辺の大名たちにも甲斐の武田との塩の売買を停止するようにと通達しました。この塩止めの影響は、甲斐の国の領民たちの健康を害したといいます。
上杉謙信のもとにも今川らから「塩を送るな」とのお達しがあったのですが、ここは謙信、同調圧力に屈することなく武田へ塩を送って、ライバルの窮地を救ったという逸話が残されています。実際にあったことなのか真偽は明らかではありませんが。
「敵に塩を送る」とは、「たとえ敵であっても窮地に陥った者には手を差し伸べる」という意味です。しかし、高血圧が国民病となり、減塩が強く推奨されている現代にあっては、「敵に塩を送る」も、相手の血圧を上昇させ、心臓や脳の病気のリスクを高めるための戦術の一つと思われるかもしれませんね。
塩分摂取量が多かった戦国時代メシ
戦国時代の食事は、基本的には一汁一菜といわれています。玄米ご飯に味噌汁、そして野菜の煮物などが代表的なメニューになります。しかし、これは平時のときのものであって、いざ戦が始まると、武士は携行しやすく保存の効く「陣中食(じんちゅうしょく)」を食べていました。現在ではお目にかかることのない「陣中食」とはどのようなものだったのでしょうか。
まず主食に当たるものは、握り飯や乾飯(かれいい)、餅類など。乾飯とは、米を蒸して乾燥させたもので、お湯や水で戻して食べます。乾飯は古くからの携帯食で、平安時代の『伊勢物語』の東下りの段でも、都落ちした「むかし男」が京の都を恋しがり落した涙が乾飯をふやかしたと述べられています。
そして、主食となるもののなかで陣中食ならではのものが「兵糧丸(ひょうろうがん)」です。これは米やそば粉、魚粉などを混ぜて丸めたもの。兵糧丸は軍事機密としてそれぞれの大名家に伝わった秘伝のもので具体的な材料や配合などは門外不出だったそうです。
「味噌玉」は味噌を焼いて丸めたもので、そのまま食べてもよし、お湯に溶かせば味噌汁にもなるというもの。インスタント味噌汁の元祖ともいうべきものですが、これは塩分の塊のようなもの、いきなり血圧が上昇しそうです。ほかにもサトイモの茎を味噌で煮詰めた「芋がら縄」は、普段は紐として荷物を束ねたりして、いざというときに食べるそうです。衛生面はさておき、こちらも長期保存を可能にするために塩分たっぷりの濃い味になっていました。
高血圧街道まっしぐらな謙信の最期は?
さて、塩分が多い食事をとり、戦となれば屋外で眠らなければならず、しかも夜襲を恐れて熟睡もできないという状況下にいたら、そりゃあ血圧も上がります。そのうえ謙信はかなりの大酒飲みで、梅干を肴に飲んでいたといいますから、高血圧確定! ですね。
高血圧だったに違いない上杉謙信の死因については諸説ありますが、天正6(1578)年、いまだ寒さが残る3月9日の厠(かわや:トイレのこと)で最期を迎えたという説があります。厠のなかで倒れそのまま意識が戻らず亡くなったということから、脳卒中ではないかといわれています。当時も室内とトイレでは気温差があったでしょう。急な温度差は脳卒中の発症の引き金になるといわれています。謙信が亡くなったのは49歳、信越をほぼ手中に収め、関東への進出を計画していた矢先です。さぞや無念、この世に未練を残したのではないでしょうか。
血圧が多少高くても、すぐさま生活に支障が出ることはありません。これまでと変わらぬライフスタイルを維持できますが、だからといって高血圧を放置し続けると、謙信のように突然死を招くことにもなりかねません。用心召されよ。